2004年頃、JR東海のEL機工臨運用は、
EF65形(111・112号機)2両、EF64形3両(2・35・66号)、EF58形2両(122・157号機)の
計7両で行われていた。
工臨を見たい。だが、運用がわからない・・。
いったい、どんな運用になっているのか・・
運用の状況を調べつつ、その時が来るのを待った。
そんな中、2004年に入り、
早々その機会は訪れた。静岡地区で運用されているEF64−2号機牽引の工臨だった。
同年2月頃以降も、JR東海の機関車群は、次々と検査のための入出場が行われており、
当時は、現在の状況を思うすべも残念ながら無かったのであった。
その後、工臨にロングレールを輸送する、通称”ロンチキ”なるものに遭遇する。
静岡地区での運用の多かったため、三河地区では珍しいEF64−2号機ロンチキであった。
また、名古屋地区からの定尺レールの輸送では、EF65−111号機を中心とした運用が行われていた。
工臨の撮影を始めた頃、JR東海では、貴重な原色機での工臨運用のほか、
ユーロ色機での工臨、更には、飯田線用にはEF58形が工臨運用に就いている事を知ることになる。
飯田線の工臨は、豊橋までの送込み機と飯田線用のEF58形との
工臨運用になっていた。
送込み機には、EF65−111号機、飯田線は、青のゴハチ157号機と茶のゴハチ122号機であった。
そして、ついに、ゴハチ工臨と出会う時がきた。
となると、続くはユーロ色機工臨との出会いだ。
その機会も程なく訪れることになった。
翌18日には、ユーロ色機EF66−35号機チキ工臨撮影の機会も訪れ、
ユーロ色機工臨との出会いも果たすことになる。
残すは、茶のゴハチことEF58−122号機工臨との出会いだ。
3ヵ月が経ち、その願いも叶うことになる。
2004年1月のEF64−2号機工臨との初めての出会いから8ヶ月ほどかかり、
JR東海EL機全7機の工臨運用の状況を見てきた。
この時期の運用は、
名古屋〜豊橋湖西地区間のチキをEF65形111号機(国鉄色)、
静岡地区間のチキ・ロンチキをEF64形2号機(国鉄色)、
名古屋静岡地区間のロンチキを中心にEF64形35号機及び66号機(共にユーロ色)、
飯田線ではEF58形122号機(茶)及び157号機(青)。
これが、この時期の主な工臨の運用であったようだ。
ユーロ色機であるEF65−112号機については、工臨運用自体が殆ど無いように思われた。
だが、一通りの運用が把握できたこの頃、
今後の機関車による工臨に陰りが出てくるような出来事が起こった。
14系ユーロピア車の廃車回送であった。
2004年9月10日と21日のことであった。
この日の牽引は、EF65−111号機と112号機がそれぞれ担当、
当時は、ピア車も老朽化してしまったのか・・残念だ・・
と思うだけだったのだが、
これこそが、釜廃止への始まりであったに違いなかった。
2005年に入り、ついにユーロ色機EF64−35号機牽引のロンチキを捕らえた。
このロンチキ撮影の直後、2005年4月19日、ピア車廃止に続く大きな出来事が起こってしまう。
そう、ユーロライナーの廃車回送であった。
牽引は、ユーロ色機EF65−112号機が担当、最後のユーロライナー正調編成であった。
ユーロピア及びライナーの廃車で若干の運用変更があったのか、
湖西地区でのユーロ色機EF64−66号機牽引の定尺チキ牽引を初め、
今まで、見かけることのなかったユーロ色機EF65−112号機牽引の工臨を
ついに捕らえることができた。
この後、2005年は、特段何事も無かったかように、基本的な工臨運用が続けられていた。
2006年に入り、ついに恐れていたことが起こりだしてしまう。
釜の故障だ。
最初に不具合を発生したのは、EF64−2号機であった。
ただ、同機については、同年4月22日、幸運にも検査完了にて復活を果たすことになる。
この頃、もう一つ、気にかかる状況が発生していたようだった。
同年2月に検査出場したばかりのEF65−111号機の様子であった。
実際のところは不明であるが、同年春頃からの運用では、
飯田線チキ豊橋送込みが、この111号機から何とユーロ色機DD51−791号機に
変更となった。
この時期、やはり111号機は、既に故障あるいは運用から離脱していたのではと思われる。
また、ある鉄道誌には、連休明けにゴハチ122号機が廃車・・
と掲載されてしまった。
その連休後、ゴハチ122は、飯田線において最後の花道なのか、
チキ6両を牽引という活躍を行うことになり、
このうわさは、正確には当たってはいなかったものの、
実は、その時期も、そう遠い日ではなかった・・。
(一般的な営業運用としては、連休中のトロッコファミリーが最後の運用であった)
国鉄色機EF65−111号機が、2006年の春先ごろ、
茶釜EF58−122号機が、同年6月9日に行われたチキ6両の返し、
これ以降、両機の運用は見かけていない。
多少の前後はあると思われるが、多分、両機は、この時期に廃車となったものと思われる。
事実、6月15日、122号機の豊橋より西浜松への単機回送が行われており、
これが、実質、同機の廃車回送であったのでは、と思われる。
実際、廃車が行われたとなると、今後の工臨運用にも変化が起こるはず。
この時期以降、工臨運用は、
飯田線工臨豊橋送込みにユーロ色機DD51−791号機、
名古屋豊橋湖西地区間のチキ工臨にEF64−35号機、
名古屋静岡地区のチキ・ロンチキ工臨にEF64−2号機と35号機、
飯田線には、EF58−157号機が当てられることになる。
EF64−2号機に関しては、復活したといえ運用は少ない様子であり、
これにより、ユーロ色機EF66−35号機の運用回数が、
格段に増えることとなっていた。
更に気がかりなのは、EF64−66号機の運用が殆どなくなっていたことだった。
正確な時期は不明だが、
ユーロ色機DD51−791号機が工臨運用に就くようになった頃、
7月1日にEF64−35号機が名古屋地区発静岡方面の工臨に就いたことから見ると、
ユーロ色機DD51−791号機が豊橋工臨運用に就くようになった頃から2006年8月も終わる頃にかけて、
再び運用に変化が見られるようになる。
今回の運用変更は、何と国鉄色機であるEF64−2号機の復活であった。
変わりに、豊橋地区での791号機の運用は見られなくなる。
EF64−2号機は、今までにない名古屋豊橋地区を中心とした運用に変化していった。
変わりにユーロ色機EF64−35号機は、名古屋豊橋地区では見られず、
静岡地区での運用にシフトされたようであった。
9月頃まで続いたと思われるこの運用は、
9月3日に行われたEF64−2号機の静岡方面への東海道上り単機回送と、
9月7日に行われたEF64−35号機の名古屋方面への東海道下り単機回送とで、
名古屋静岡両地区間での機関車の入れ換えにより終了した。
何故この短い期間で両機関車の入れ換えを行う必要があったのか、理由は不明であるが、
不具合を抱えたEF64−2号機のロングランを避けていたのであろうか。
この入れ換え完了となった10月以降は、
以前のDD51−791号機が東海道運用に入る前の運用形態に戻っていった。
運用変更後、名古屋地区に入線するロンチキには、
以前のように、EF64−2号機が当てられることもあった。
明けて2007年、
JR東海から正式な発表が行われた。
いわゆるキヤ97系の新製である。
気動車式のレール輸送車で、2008年春に定尺輸送車の
また、同年夏には、ロングレール輸送車の運用を開始するというものだった。
ということは、同時期ごろまでには、機関車牽引による工臨は全て廃止、
客車の廃止も行われていることから、
機関車自体も同様になるであろうことは想像に難くなかった。
その上、飯田線用ゴハチ157号機も春頃までで廃車となる・・
といううわさも持ち上がり、その後のキヤ97系までの繋ぎをどうするのか・・
ということまで話題に上がることになる。
発表はされたものの、2007年内は当然ながら現状による運用が行われていった。
この年は、新年早々のロンチキ工臨で、
ユーロ色機のEF64−66号機が久々に豊橋名古屋地区に入線し、その姿を見せ付けてくれた。
しかし、この66号機は、同年2月8日に単機回送で東海道を下った姿を見たのを最後に、
再びその姿を見ることはできなかった。
一方、廃車のうわさの高まるEF58−157号機は、
2月〜3月に入ってもEF64−35号機から受け取ったチキを黙々と飯田線へと運んでいった。
ところが、3月の中旬にそれは起こった。
3月9日の飯田線門島工臨の運用を終えた157号機が、
静岡地区へと送られたのであった。
何故こんなイベントっぽいことが起こったのだろうか。
この時点で残されていた釜は、
EF64−35号機、EF64−2号機、EF58−157号機、DD51−791号機であったはず。
この頃、64−2号機は全検時期がきており、検切れでそのまま廃車してしまうと、
予備車無しの64−35号機のみでキヤ97系完成までの工臨をこなすという運用となり、
なかなか難しいものであったため、64−2号機の全検入場になったものと思われるが、
これにより、静岡地区での工臨牽引機が不在となってしまったためであった。
こうして、全検切れ直前のEF58−157号機は、
3月8日発の函南工臨の運用から幹線走行という最後の大舞台に立つことになった。
この後、同年4月12日に157号機は、
交検明けのロンチキの回送という運用にも就き、
最後に幹線ロンチキ牽引という舞台も残してくれることになった。
このロンチキ運用の翌4月13日、EF64−2号機は全検から出場したため、
常備先である豊橋へと戻ることになったEF58−157号機は、最後の大舞台を終えた。
この3〜4月になっても、名古屋豊橋地区では、
EF64−35号機がロンチキ・チキとも黙々と工臨運用をこなしており、
また、同機のみの運用でもあったため、その姿はかなり頻繁に目撃されることになっていた。
ところで、DL機として残されていたDD51−791号機は、この時期、どうなっていたのだろうか。
前年の2006年夏ごろ、豊橋地区への工臨運用を終えた同機は、
やはり、岐阜地区での運用に就いていたようだ。
詳細はよくわからないが、2007年に入り、
3月21日に大垣工臨、24日には高山本線の工臨運用に就いたようで、
4月10日にDE15ラッセル車の西浜松への返却回送の運用を最後に、
その姿を見かけることはなかった。
そして、5月8日、ついに単機にて西浜松へと向かった。
では、残るEL機の運用はどうなっていたのであろうか。
4月9日に全検から出場したEF64−2号機が静岡地区で、
EF64−35号機は、157号機の大舞台での出来事はよそに、
名古屋豊橋地区を中心に運用をこなしていた。
この後、5月に入り、4月に全検から出場したEF64−2号機は、
ロンチキ牽引で久々に名古屋地区に入線したが、
11日の返しの運用は、EF64−35号機が担当した。
再度運用の変更か、あるいは、故障の再発か、と思われたこの牽引変更でもあったが、
どうも、この時期を境にして、
両機が名古屋豊橋静岡の全地区にて運用をこなしていたようであった。
残る2機にて、全地区にて最後の運用をこなしていくのであった。
一方、大舞台から返ったEF58−157号機はどうなったのか。
157車体を良く見ると、全検表示が12−7となっている。
このあたりから、157号機春頃廃車のうわさがでたものと思われるが、
静岡地区から戻って間もない5月に入り、飯田線での157号機の運用は、
格段に増えつつあった。
検切れ間近の最後の前倒しのようにも見える運用で、
ついにゴハチ157号機も終焉を迎えようとしていることは明らかであった。
実際の運用としては、5月7日・6月6日・6月15日・7月30日等あたりに
飯田線の積載チキ工臨が行われたようであり、
返しと単機送込みを入れると、
この4倍の走行を目撃することができることになったはずである。
飯田線での連続運用も終わりそうな夏真っ盛りの7月30日、
EF58−157号機は、伊那松島の工臨に出かけた。
12−7全検切れながらも、休車期間を振り当てての運用であった。
8月に入り5日、157号機は伊那松島までチキの返送に出かけていった。
廃車といううわさの広がる中での工臨運用であった。
ところが、この伊那松島返却工臨を終えた157号機は、
翌8月6日に、なんと、交検を受けるために単機回送されたのであった。
奇跡の交検入場で騒然となったが、
10日、無事交検を終え、出場を果たしたのであった。
幾度とない廃車のうわさを打ち消して、
最後の運用を待つばかりとなった。
この時期、これとは別に、EF64−35号機も
交検入場を行い、今後の運用に備えていった。8月19日のことであった。
8月10日、交検を終えたEF58−157号機は、
8月末からの飯田線レール配置箇所への工臨連続運用に就いた。
これこそが、本当の前倒し運用であったに違いなかった。
実際の運用は、
8月21日に門島、9月6日に平岡、9月17日には七久保、
10月に入っても、6日には三河川合市田、22日には大海七久保と、
飯田線レール配備箇所へのレール輸送を精力的にこなしていくのであった。
これも、実際には、単機回送及びチキ返却も同時に行われるため、
この4倍の稼働日数があったことになり、異常に多い運用であったことは間違いないであろう。
そして迎えた11月10日、秋も深まりつつある頃であった。
三河川合からのチキ返却工臨がその最後の姿となってしまった。
12月末には落成するであろう新型レール輸送車キヤ97系を迎えるにあたり、
一連の工臨運用を終えた157号機は、これ以上の延命を行われることも無く、
その使命をキヤ97系に譲り、長年の活躍を称え労う何の飾りも無く、
終焉を迎えるのであった。
11月15日、数名の駅員とわずかなファンに見守られながら、
西浜松へ向けて豊橋駅を単機、出発していった。
ゴハチが終焉に向けて運用を重ねていく一方で、東海道本線でも、工臨運用は続いていた。
名古屋豊橋地区では、EF64−2号機より、やはりEF64−35号機が中心の運用でもあった。
こちらもゴハチ同様の運命を辿ることはまず間違いない。
ただ、キヤ97系のロング版の運用までには時間差があるため、
ロンチキでの運用が最後まで残るであろう事は、想像できた。
また、この時期、JR東海の合理化・省力化は進み、
11月5日、運用されていた最後の客車であったトロッコファミリーが
ついに廃車回送されてしまった。
牽引には、色褪せたDE10−1524号機があたり、
機関車共々、西浜松への帰らぬ旅となってしまった。
これにより、釜廃絶の合理化は、
キヤ97系の本格運用を待つばかりとなっていた。
飯田線各地への一連のレール輸送も終わり、飯田線に静けさが戻った12月に入り、
いよいよキヤ97系が落成する運びとなった。
12月12日、記念すべきキヤ97系第1編成(R1)が製造元より出場、
深夜にその姿を現した。
現行の検測車キヤ95系によく似たデッキ付きの風貌を持つコキみたいな感じだろうか。
落成は、次々と進み、
18日にはR2編成が出場、25日には、R3R4編成重連にての出場が行われ、
あっという間に、4編成が揃ってしまった。
出場後、明けて2008年、早々に各地で試運転が始まった。
測定用プレハブを積載したキヤ97系は、単独・重連・空車・積載とそれぞれに、
JR東海各線区に入線、3月上旬からは、検測用プレハブを卸すために再度製造元に入場、
4月、いよいよその本格運用が始まった。
一方、キヤ97系のロングレール輸送車も、
3月18日及び25日に落成、キヤ97系に牽引され深夜に製造元から出場した。
編成はR101編成、ロンキヤと呼ばれるようになった。
こちらは、前面よりレールの積卸しを行うため、
運転席を高くした、若干厳ついような風貌となった。
出場後、ちらも同様に試運転が行われ、6月14日、一旦、製造元に入場した後、
7月よりその運用を開始した。
2008年もすっかり春となった4月、定尺キヤ97系の本格運用が始まった。
と同時に、チキ工臨の運用は全て終了した。
春もまだ浅い3月7日、EF64−35号機が牽引するチキ4が、
その最後の目撃となってしまった。
実際の運用も、定尺キヤ97系の本格運用と合わせてみれば、
この時期を境に完了してしまったものと思われる。
一方で、気になるのはロンチキの動向である。
気になっていても、終焉へのカウントダウンはもう始まっているはずで、
7月のロンキヤ本格運用予定まで、ということは、長くて6月末までの運用であることは、
明らかな状況であった。
このような状況の中、ロンチキの運用は着実に行われていた。
2008年に入り、1月・3月と名古屋豊橋地区にてEF64−35号機牽引のロンチキを目撃、
また、4月に入って、EF64−2号機牽引のロンチキが、
名古屋地区までの入線を果たすところを目撃した。
が、その終焉は、意外と早くやってきてしまったのだった・・・。
ロンチキ最終の運用となってしまったのは、
4月18日深夜発の西浜松〜米原への運用。
この工臨の釜運用は、変則的な運用が組まれていた。
これには、どうやら悲しい事情が待ち受けているのであった。
18日に西浜松を出発した静岡地区配備のEF64−2号機は、
未明に稲沢までロンチキ牽引を担当。
稲沢にて任務を終え、単機静岡地区に戻ってしまう。
稲沢にてロンチキを引き継ぐことになった名古屋地区配備のEF64−35号機は、
19日、颯爽と米原方面へのロンチキ運用に出発して行くが、
実は、これが同機の悲しい最後の花道と決まっていた。
ロンチキは西浜松常備であることから、米原に向かったロンチキは、
最終的には西浜松に戻ることになる。
そう、推測のとおり、EF64−35号機牽引のまま、西浜松にロンチキを返すことで、
35号機の廃車回送を兼ねていたのであった。
20日に高塚に一泊したEF64−35号機は、
翌21日、西浜松に到着、ロンチキの運用終了と共に、
自らの運用にも終止符を打つことになった。
ところで、この35号機の工臨運用の中で、あるハプニングも起こってしまった。
ロンチキの故障だった。
取卸しのできなかったレールを積載したままの返却となった同工臨は、
後日、この分の再施工が行われるといううわさもあったが、
実際、行われたのかは、不明である。
その後、6月に入り、7月からのロンキヤ運用が固まったためか、
最後まで残った静岡地区のEF64−2号機牽引にて、
西浜松発6月26日及び7月3日のロンチキの廃車回送が行われ、
7月3日の回送完了後、名古屋地区からEF64−2号機自身も
単機回送にて西浜松へと入場、2度とその姿を見ることはなかった。
ここに、JR東海の合理化・省力化への釜廃絶は完結し、
今後は、国鉄時代から脱皮した新しい時代へと進んでいくことになる。
2008年7月、釜+チキを使用した工臨の全廃とともに、
JR東海の工臨は新時代に突入した。
2008年4月の定尺キヤ、同7月のロンキヤの本格運用開始後、
その姿は、かなり頻繁に見ることができるようになった。
もう、増備のうわさも上がっている状況である。
ほら、今日もあそこでキヤが走っているよ・・・。